モスクワは涙を信じない、の映画論。

かつて見たソ連ポウ健在なころのソ連製映画。捨てた女が自分の上司の工場長か何かになってやってくる。それを再び工場長室で再会する。映画館の中の自分はまだ若かったけど、こういう映画の台本に女でも男をつてとせずに立ち直り生活が維持できる。ほんの情愛に引きずられずに強く生活するがわの女岸、そこには佇む姿もあったんだろうが、女として乗り越えていく、そんな男とは違う力に魅せられた気がしてた。あれはなんなんだろうか。男と女との戦いでなく、生理でもなく、一種孤独なんだけど男と違って嫌らしくない!なんか今となっては幻影かもしれないけど、こうした女が社会主義では育つんだという感じ。この話思い出したのは復権するマルクス的場昭弘との対談のなかで佐藤優がこの映画「今でもロシアではよくかかっています。丁度日本のフーテンの寅さんみたいな感じで、男はつらいよ、みたいにお正月番組です。リバイバルで必ずかかります」と変な紹介をしているから。そういうもんなんだよね。その年を終わらせようと人間が図るとき、何も必要がないのにさ、必ず喉元を熱くするもの飲み込んで、その上でないと何か終わらせた感じがしない?