坂本九ちゃん論

こっち来てオーディオを少しかけれる体制となった。カセットレコーダーをヤフオクで手にして、それが昨晩届く手配をしていた。その音はアンプの貧弱もあって決して良い音とは言えない。耳もだんだん悪くなっている。いい音というのは分離がきちっとしていて細部がよくわかるきめ細かい感じの音。それで今日はチューナーをヨドバシカメラから買って戻ってきて設置する。しかし期待通りの良い音とまでは行かなかった。受信環境が悪すぎたのかも知れない。カセットの方は昔の柏丘珠子女史のフランス語講座が一番聞ける。オペラはゴソゴソしているが、こっちは1988年のAMの録音カセット。語学番組の質が高いのが音として伝わる。MDデッキは自宅から送ってこれも昨晩届いた。そこに長いことこちらに置いておいた坂本九ちゃんのMDを久しぶりかけた。このMDはあんまり得意ではない。あんな死に方をしたこともあってかこの中の曲はとても暗いものばかりだ。金平ちゃんの晩年?の歌は結構暗くて聞くのが少し辛かった。親父、さよなら東京、その他の曲、でも今回少しこの歌手が分かった。分かるためにはこっちも相当暗くなくては分からないものなのだ。それが分かったというのはそんな気持ちに近かったのかも知れないが、坂本九ちゃんだってソレを分かって歌ってるのだ。どうしても明るい歌は歌えない時に録音したのだろう。こういうことは歌手には必ずある。与えられた歌だから歌うのではない。他者かもしれないが多くの場合は自分の深層への伝言みたいな所きっとあるんだろう。まず声の出し方が独特だ。凄くズラしたりボリューム変えたりして歌う。語るのでもない、何かを大きなものを演じるのでもない。歌の中身からすると役になりきるように、その役の人が言うだろう歌うだろうという風にもっていく。コレは上手い下手とは関係ない。歌ドラマというそういう風にもっていく。いわば叙事詩的に唄うのだ。そこにポツンと一つの感情が浮かぶ、それは何かというと人生は取り返しがつかないものの連続だ、という感情である。そんな風に歌ってるのだ。惜別とカサナるそういう部分もあるかもしれない。昔江夏豊があの事件を起こしたあと、新聞で私の好きな3つのものを挙げるシリーズでなんか書いていた(質問に答えてて記事にしただけかもしれないけど)。その3つの中には覚せい剤なんて勿論なぃ。最後は藤原審璽の天才投手という小説でそのピッチャーの名前は夏堀金平といい、江夏と堀内と金田と平松を合体したものだ。それはわかる。真ん中何かは忘れたが、最初の一番に「九ちゃん」と書いていた。そこでそうか江夏豊には坂本九の歌のどこが引っ掛かったのか今日は見当がついた。当たってないかもしれない。江夏豊坂本九ちゃんの明るい無垢な歌が好きなのかもしれない。でもやっぱりこの悲しい歌のほうが江夏豊は好きでなかったのかと思う。いつか?江夏も私も明日は少し明るくなれる気はしてる。でも坂本九ちゃん、いやあの頃の芸能人は何となく芸の中に己のソウネンを溶け込ます術があったよなぁーと思う。