香謡曲の歌い方

やはり香謡曲というのは歌うのが難しい。石川さゆりの風の盆を聞いてて、絶唱なんだろうがしかし果たしてこれが唯一の歌謡法なのかというと日本語の難しさが滲み出てくる。こんなの日本語以外にあるのだろうか?言葉に乗せてく感情というもの、それが微妙な言葉の出し方で違ってくる。ある場合歌い方一つで同じ歌詞が違った感情与えてくる。生きる喜びと哀しみの振幅が大きい。こんな国語あるんだろうか。自分は安倍晋三人気回復記念で、日本語棄捨論者となり英語を国語にしようぜという意見賛成なんだが、こういう高度な日本語見聞きするとその深さが怖く身に迫る。まぁ英語を心情的に理解できるなんて先の先なんだろうが〰

国民と国家間のシフト《日本というクラブからの離脱》

今度の総選挙、その結果次第では生き方を変えなければならないのかなと思っている。大方の予測では圧勝安倍がとなっている。そうなるのが民意の結果だとすると自分の意とは大いにことなることとなる。それは阻止できないとすると自分とは考えがにていない人が今の日本には多いということになる。昔から変わった人間と思われてたかもしれない。勝手な人と思われたかも知れない。確かに首尾一貫せずに快楽に生きてきた。そんな人間はまともではないと言われたら言われるのはしゃくだが頭は下げよう。でも頭下げて地べた見てても埒は明かない。見てても変わらないものなら頭上げたときは頭下げさせた人を飛び越えて行ったらスカッとするだろうな☀そう思う。そして人は人を支配して指図されることを今までもこれからも拒絶する事こそ人生の本願と心得て少しは人間関係を見直そう。その見直しのスケゾャールの中に今回の総選挙、民意の反映、そして民意の強制が立ちはだかってくる。今までは個別の人が君はどうだ⁉と自分のことを言ってきた。しかし今度は誰も言ってきやしない。でも結果は個別の時よりも大きなインパクトを与えてくるような気がする。国家を国家として尊敬できない、国家がこうあっては国民としては離れたらなぁと思う。国は民意の集合体だろう。でもそこに集合できないのならグランドでみんなが集まってるのに一人教室にいるわけには行かない以上自分で何とかするしかない。僕今日から日本国民としての自分から離れますって、日本というクラブ退団させてもらいますって、言うしかないのかもしれない。そういうこと果たしてある程度以上にできるかどうか分からないけど生き方を変える方向にもっていったほうが良いような気がする。安倍首相は私たちの首相デはない❗と言っている暇はもうそんなにないんだろ。昔マツコ・デラックスの北海道米に変えようとのポスターに「今から米チェーン!」というのあったけどなんかそんな感じが沸いてきた。今から生きチェーン❗それで行こう✨

坂本九ちゃん論

こっち来てオーディオを少しかけれる体制となった。カセットレコーダーをヤフオクで手にして、それが昨晩届く手配をしていた。その音はアンプの貧弱もあって決して良い音とは言えない。耳もだんだん悪くなっている。いい音というのは分離がきちっとしていて細部がよくわかるきめ細かい感じの音。それで今日はチューナーをヨドバシカメラから買って戻ってきて設置する。しかし期待通りの良い音とまでは行かなかった。受信環境が悪すぎたのかも知れない。カセットの方は昔の柏丘珠子女史のフランス語講座が一番聞ける。オペラはゴソゴソしているが、こっちは1988年のAMの録音カセット。語学番組の質が高いのが音として伝わる。MDデッキは自宅から送ってこれも昨晩届いた。そこに長いことこちらに置いておいた坂本九ちゃんのMDを久しぶりかけた。このMDはあんまり得意ではない。あんな死に方をしたこともあってかこの中の曲はとても暗いものばかりだ。金平ちゃんの晩年?の歌は結構暗くて聞くのが少し辛かった。親父、さよなら東京、その他の曲、でも今回少しこの歌手が分かった。分かるためにはこっちも相当暗くなくては分からないものなのだ。それが分かったというのはそんな気持ちに近かったのかも知れないが、坂本九ちゃんだってソレを分かって歌ってるのだ。どうしても明るい歌は歌えない時に録音したのだろう。こういうことは歌手には必ずある。与えられた歌だから歌うのではない。他者かもしれないが多くの場合は自分の深層への伝言みたいな所きっとあるんだろう。まず声の出し方が独特だ。凄くズラしたりボリューム変えたりして歌う。語るのでもない、何かを大きなものを演じるのでもない。歌の中身からすると役になりきるように、その役の人が言うだろう歌うだろうという風にもっていく。コレは上手い下手とは関係ない。歌ドラマというそういう風にもっていく。いわば叙事詩的に唄うのだ。そこにポツンと一つの感情が浮かぶ、それは何かというと人生は取り返しがつかないものの連続だ、という感情である。そんな風に歌ってるのだ。惜別とカサナるそういう部分もあるかもしれない。昔江夏豊があの事件を起こしたあと、新聞で私の好きな3つのものを挙げるシリーズでなんか書いていた(質問に答えてて記事にしただけかもしれないけど)。その3つの中には覚せい剤なんて勿論なぃ。最後は藤原審璽の天才投手という小説でそのピッチャーの名前は夏堀金平といい、江夏と堀内と金田と平松を合体したものだ。それはわかる。真ん中何かは忘れたが、最初の一番に「九ちゃん」と書いていた。そこでそうか江夏豊には坂本九の歌のどこが引っ掛かったのか今日は見当がついた。当たってないかもしれない。江夏豊坂本九ちゃんの明るい無垢な歌が好きなのかもしれない。でもやっぱりこの悲しい歌のほうが江夏豊は好きでなかったのかと思う。いつか?江夏も私も明日は少し明るくなれる気はしてる。でも坂本九ちゃん、いやあの頃の芸能人は何となく芸の中に己のソウネンを溶け込ます術があったよなぁーと思う。

モスクワは涙を信じない、の映画論。

かつて見たソ連ポウ健在なころのソ連製映画。捨てた女が自分の上司の工場長か何かになってやってくる。それを再び工場長室で再会する。映画館の中の自分はまだ若かったけど、こういう映画の台本に女でも男をつてとせずに立ち直り生活が維持できる。ほんの情愛に引きずられずに強く生活するがわの女岸、そこには佇む姿もあったんだろうが、女として乗り越えていく、そんな男とは違う力に魅せられた気がしてた。あれはなんなんだろうか。男と女との戦いでなく、生理でもなく、一種孤独なんだけど男と違って嫌らしくない!なんか今となっては幻影かもしれないけど、こうした女が社会主義では育つんだという感じ。この話思い出したのは復権するマルクス的場昭弘との対談のなかで佐藤優がこの映画「今でもロシアではよくかかっています。丁度日本のフーテンの寅さんみたいな感じで、男はつらいよ、みたいにお正月番組です。リバイバルで必ずかかります」と変な紹介をしているから。そういうもんなんだよね。その年を終わらせようと人間が図るとき、何も必要がないのにさ、必ず喉元を熱くするもの飲み込んで、その上でないと何か終わらせた感じがしない?

麻生太郎よ永遠なれ

外地にいるから詳細なもの理解してないが最近麻生太郎は武装難民の麦人形を木に打ち付けそこに所持してたライフルで発砲する幻覚にとらわれたらしい。それは何も彼が愛国者だからそうしてるのだとは思われず、単なる武器愛好家と見破られてもいたらしい。しかもシュッシンノ特異な大学故に天皇陛下にまで塁が及ばぬかと皇室愛関係しゃから眉を潜められてもいるらしい。しかし最後のところはいかんが、その他の点は麻生太郎中々やったなと、ひとかどの敬意をお見舞い奉りたい。

土台この一族というのは鳩山ファミリーに対抗しての存在である。片や華麗なる鳩山一族があって億万長者であり東大出であり著名な法学者をも出し、されど愚劣と化しそういう貴族華族の家柄があってのものだった。それは基本はアンチ天皇だったんだろ。それに対してイギリス流ではあるがどこの大学出たんか分からんような伯父健一をもち東大を見向こうにも見向きもされず、アングロサクソマニアック丸々の館にすむことを好み地方豪族的な吉田ファミリー、そのスタンスは一朝あらば国王のために馳せ参じるジキサンの心構え、それを矜持している。それは正に侍であり、本人ルックスはアルカポネ風だけど北面の武士魂を保持している。正に今回のカイチンもその魂の露出であって国民の生命財産は二の次、天皇と我が国土を御守りする至純至誠の一言と見た。

それにしても彼のような複雑な人を単細胞のように扱われる日本の現状もイタマシイものがある。今後も彼の幻覚と仲良く付き合っていきたい✨そう心に決めた‼次第である。